ग्रन्थाः

日本語著書

  1. 革命亜細亜の展望 (325頁) Panoramic Views of Asian Revolution  (1929) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2385986, viewable at NDL
  2. 革命の印度 (428頁)  India in Revolution (1932) 革命の印度 http://www.shoshi-shinsui.com/book-bose.htm
  3. 印度民話集 (272頁)  Indian Folktales (1935)  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1237781, viewable at NDL
  4. 桎梏(しっこく)の印度 (334頁) India Oppressed (1933) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1153737  India in Bondage by Jabez T. Sunderland (1929)
  5. 印度頓知物語 (340頁) Wits and Humours of India (1930) 印度頓智百譚(1931)188pages
  6. 青年亜細亜の勝利 (245頁) Victories of Young Asia (1937) 青年亜細亜の勝利(1937、s12)143pages
  7. 印度の叫び (345頁) Crying of India (1938), インドの叫び(1938)197pages
  8. 印度神歌 (163頁)Bhagavata Gita (1940), http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1051844, viewable at NDL
  9. Tragic History of India (1942), 蹶起した印度の実相 (1944) 57pages
  10. Speaking on India 印度を語る(1942, 129 frames), http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267128
  11. India is Crying(1942), the newer edition of 印度の叫び 印度は叫ぶ (1942)155pages
  12. Dawn of Independent India (1942), 独立印度の黎明(1942) 154pages
  13. Struggle for Independence (1942), 独立の闘争(1942)144pages
  14. Ramayana (1942), 印度神話ラーマーヤナ http://www.shoshi-shinsui.com/book-ramayana.htm http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040010
  15. Translation of Rabindranath’s Sesher Kabita, The Last Song (1943),
  16. The India of Indians (1943),  「印度人の印度」必成の秋(1942) 57pages
  17. Bose appeals (1944) p. 34, [8], ボースは叫ぶ

 

印度民族運動概観

漢方医学余談 目次:印度の志士ボース 281ページより(コマ154)

決起した印度の真相 河東忠 著 当時のボースと語る (1944)

頭山満翁の真面目

非常時局にたつ近衛公 (コマ66から)ラス・ビハリ・ボースの論據

ラス・ビハリ・ボース, 関係資料目録

ラス・ビハリ・ボース, デジタルコレクション

ボース デジタルコレクション

大東洋の危機 : 英国よアジアより手を引け(1938) 35pages only 2pages?

大東文化大学所蔵のインド・南アジア関連資料  カレンダー

https://catalog.hathitrust.org/Record/100052215

ーーーーーーーーーーーー

年表

  • 1886 ラス・ビハリ・ボース誕生 (5月25日)
  • 1904 (明治37年)2月8日 – 1905年(明治38年)9月5日 日露戦争
  • 1914 (大正3年) - 1918年(大正7年) 第一次世界大戦
  • 1914 ラス・ビハリ・ボース日本に亡命 (28歳)
  • 1917 ラス・ビハリ・ボース結婚(31歳)、妻 相馬俊子(当時19歳) (6月)
  • 1919 正秀 Bharatchandra 誕生
  • 1922  哲 誕生、結婚後 樋口哲子
  • 1923 日本に帰化 (37歳) 姓を防須と改める
  • 1923 関東大震災 (9月1日11時58分32秒
  • 1925  妻俊子死亡(享年26歳)(まさひで6歳、哲3歳)
  • 1941 大東亜戦争宣戦布告(12月8日)
  • 1945 ラス・ビハリ・ボース 死亡 (1月21日) (享年57歳)
  • 1945 ポツダム宣言発表(7月26日)
  • 1945 ポツダム宣言調印(9月2日)

——————

参考文献

新亜細亜の誕生ラス・ビハリ・ボース氏著『印度の叫び』を讀む 村田光烈 著

http://www-lib.tufs.ac.jp/opac/en/xc/search/*?ql=1&filter%5B0%5D=all_authors_fc%3A%22Bose%2C%20Rash%20Behari%2C%201886-1945%22&page=0&rows=10

アジアのめざめ ラス・ビハリ・ボース伝

亜細亜のめざめ 印度志士ビハリ・ボースと日本(1953), 相馬黒光、相馬安雄, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3007956, viewable at NDL

http://www.shoshi-shinsui.com/book-mezame.htm

父ボース 追憶のなかのアジアと日本 (白水Uブックス 歴史)

樋口 哲子: 1922年、R・B・ボースと相馬俊子の長女として生まれる。戸籍上は「哲」だが、祖母、相馬黒光の亡くなった娘の名前にちなみ、通称「哲子」となる。45年、原宿の自宅で父の臨終を看取るまで、激動の時代をともにした

http://honto.jp/netstore/pd-book_03038138.html

http://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%8A+&viewRestricted=0

印度の歴史と文化

https://www.saada.org/search/rash%20behari%20bose


彼女が妻主導の家庭を築いて亭主を尻に敷いたのも、「若い燕」たちを身の回りに集めて恋の駆け引きを楽しんだのも、本人は意識しなくても古い日本に対する挑戦としてだったのである。

良の反逆精神が、かりそめなものでなかったことは、亡命インド人ボースをはじめ多くの「反逆者」を自宅にかくまったことでも分かる。

外面(そとづら)と内面(うちづら)弱い者に手を貸すという良の義侠心が最初に発揮されたのは、国木田独歩と佐々城信子の間に生まれた薄幸の女の子を自宅に引き取ったときだった。信子は独歩の子供を身ごもったまま別れ、離婚成立後に生まれた女児を里子に出してしまった。良はこの子を引き取って、自分の子供と一緒に育てているのだ。本郷でパン屋を開業し多忙を極めていた頃のことである。

やがて船の事務長と所帯を持った信子が、娘を返してほしいと言ってくる。だが、実母のもとに戻った娘は8年後に家を飛び出して再び中村屋に戻ってきている。これが手始めだった。その後、良は、直ぐには数え切れないほど多くの人間を援助したり、自宅にかくまったりしている。

そのほか、市電がストライキをしたときに自宅を作戦本部に提供したこともあるし、正月に朝鮮からの留学生30人を招待して雑煮をふるまったこともある。こうした多面的な活動を展開するなかで、相馬家に最も大きな影響を与えたのは亡命インド人ボースだった。

ボースはインド独立運動の闘士で、イギリス人総督を襲撃して負傷させたためにイギリスの官憲から追われる身になっていた。日本に亡命してきたボースを保護したのは、右翼の巨頭・頭山満をはじめとする宮崎滔天、大川周明、寺尾享など大アジア主義を奉じる「国士」たちだった。一方、政府は同盟関係にあるイギリスからボースを引き渡せという要求を突きつけられて困惑していた。折から、第一次世界大戦のさなかで、日本は同盟国である英国の要求を無下には断れない立場にあったのである。

政府はボースの身柄引き渡しを拒否したけれども、彼を国外に追放することで英国の要求に間接に応えようとした。こうなればボースを救うには、彼を何処かへ隠してしまうしかなかった。ボースを自邸で保護していた頭山は、政府の監視下にあって自由に動くことが出来ず、ボースの運命は窮まったかに見えた。この時に、相馬愛蔵がボースをかくまうことを申し出たのである。

ボースを自宅裏のアトリエにかくまったことから愛蔵夫妻は、頭山満との関係を深めていく。もともと夫妻は木下尚江、島田三郎などのキリスト教系社会主義者と懇意で、政治的には社会主義の系列下にあり、体質的に左翼思想になじんでいたのだった。それが、今や右翼の大ボス頭山満の意を受けて行動するようになったのだ。

良が頭山満を崇拝するようになったのは、その頃、彼が政府に対抗する一大敵国と見られていたからだった。頭山には、良好みのカリスマ性があった。巖本善治、岡田虎二郎、渡辺海旭などの指導者を亡くして心のよりどころを失っていた彼女は、頭山という右翼の巨魁のなかに新たな帰依の対象を見出したのだった。

ボースは四ヶ月半中村屋に隠れ住んだ後に、次の隠れ家に移った。警察の目を逃れるには、短い周期で、転々と住まいを変えなければならない。絶え間なく居所を変えながら逃亡生活を続けるボースとの連絡係には、秘密を知っていて、しかも英語の出来る人物が必要だったが、頭山の周囲には、そうした人間がいなかった。

俊子は女子聖学院の高等科に学ぶうちに英語に堪能になっていたし、寡黙で口の固い娘だったから、連絡係に最適だった。しかし良は、娘の俊子をボースと頭山の間を取り結ぶ連絡係にしたことを後で後悔することになる。

やがて頭山から無理難題といえるような話が持ち込まれた──ボースに婆や一人をつけておくだけでは、心許ない。ボースに一日中つきそって、彼の目となり耳となるような女性がいてくれたらと思う、俊子がそうした女性になってくれたら有り難いのだが、というのである。これはつまり、俊子とボースを結婚させろという要求にほかならなかった。

中村彝が俊子に求婚してきたときには、良は相手が肺病持ちの貧乏絵描きだからと突っぱねたけれども、今度は政財界に隠然たる勢力を持つ頭山満の申し入れである。簡単に断ることが出来ない。良は、頭山にOKの返事をする。だが、良の気持ちは複雑だった。頭山の依頼に応えて俊子を承諾させるために自分が親の権威を振りかざして、「圧服的な態度」で娘に臨んだことを自覚していたからだった。

俊子はこの事件に対する私共の最初からの筋合を知っていて、その上先生から強っての懇望とあっては、父母の立場を思って、どうも返答の自由を持たないだろうと思う。今更に私はともすれば圧服的に近親に臨む自分の悲劇を呪わなくてはいられなかった(『満水録』)

良も俊子も、これが一種の人身御供に他ならないことを承知でボースとの結婚を承知したのである。

俊子には哀切な話がある。結婚後、ボースは無口な俊子を誤解して、自分といやいや結婚したのではないかと疑った。それで俊子を問いつめ、本当に自分を愛しているなら、ここから飛び降りることが出来るはずだと地面を指さした。二人は、その時、高い建物の屋上にいたのである。

すると、俊子は無言で欄干に駆け寄り、まさに飛び降りようとした。狼狽したボースが慌てて抱き留めたので、事なきを得たというのである。

俊子はボースとの間に二人の子をもうけた。だが、それも束の間、肺炎を病んで26才の若さで亡くなってしまう。皮肉にもそれは、良が中村彝を追悼する依頼原稿を書いている時だった。この少し前に中村彝は病死し、俊子は彝の跡を追うように幸薄き生涯を終えていたのだ。

 中村彝・俊子を相次いで失った頃の相馬黒光

俊子に死なれてようやく良は、自分がいかに残酷な親であったかに思い当たるのだ。彼女は信州穂高村から逃げ出したい一心で、俊子を婚家に置き去りにしてきた。そして娘を東京に呼び寄せてからは、新時代のレディーに仕立て上げようと礼儀作法から口の利き方まで厳しくしつけた。そして、中村彝との関係を引き裂いておきながら、頭山の意を迎えようとして俊子を亡命インド人と結婚させた・・・・・

自責の念に駆られた良は、萩原守衛に死なれたときと同様に病気になっている。渡辺海旭に帰依したのは、俊子の冥福を祈るためだった。

相馬黒光と云う女より

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。