スバス・チャンドラ・ボース

सुभाष चन्द्र बोस

Subhas Chandra Bose   (23 January 1897 – 18 August 1945)

ドイツ脱出・インド洋上の避道逅

一九四三年(昭和十八年)四月二十六日、チャンドラ・ポースとドイツからただ一人同行した副官のアビド・ハッサンを乗せたドイツ潜水艦UポートU一八○号は、日本梅軍の潜水艦イニ十六号との会合地点であるアフリカ大陸に近いマダガスカル鳥沖のインド洋に到着した。付近の海上はイギリスの制海権下にあったので、会合地点到着後たった一度だけ無線連絡することに日独海軍の間で決められていた。U一八○号が弱い電波で送信すると、イニ十六号からただちに応答があった。イニ十六号も太平洋とインド洋を横切り、正確に会合地点に到着していた。方位を知らせ合い、二十七日夜、両艦は近づいたが、インド洋は荒れ接舷は不可能だった。 

 波の静まるのを待つ潜水隊指令の寺岡大佐はボースの移乗はできないのではないかと不安にかられていた。その時Uポートから先任将校と信号兵の二人が激浪に身を踊らせ、必死にイニ十六号に向って泳ぎ出した。通信方法の異なる面国の発光信号や手旗信号では意志の疎通が十分に行かないため、決死的行動に出たのだった。Uボートからは、ドイツに帰還するにはあと一日で出発しなければならないだけの燃料しかないことが伝えられ、波が少しでも静まったら両艦の間にロープを渡し、このロープを伝いにゴムポートでポースたちを移乗させることを提案してきた。

 ゴムボートの軸先にじっと座るボースが前方のイニ十六号を見つめていると、副官のハッサンが「フカー!」と叫んだ。灰色にあれる波の間に鱶が三角の鰭を見せて泳ぎ、時折白い腹を見せるように飛ぴ跳ねた。さすがに豪胆なボースもこの時は肝を冷やした。ゴムボートがやっとイニ十六号の舷側にたどり着き、待ち構えていた水兵が手を差し伸べると、数時間も狭いボートの中で同じ姿勢をとり続けたボースは思わずよろめいた。潜水隊司令の寺岡大佐と艦長の伊豆中佐が両脇からボースを抱き抱え、やっとのことでイニ十六号の甲板に立った。昼間は潜行し夜間は敵の船影を避けるという航海で喜望峰を回る六千海里の旅を終え、インド独立の彼岸達成を目指し戦雲急を告げるアジアにボースが到着したのは、二月八日にキール軍港を出てから七十九日目の一九四三年(昭和十八年)四月二十八日の朝であった。

 大役を果たしたU一八○号の姿が見えなくなるまでボースは甲板に立っていた。イニ十六号が上陸地の北スマトラのサバン島に着いたのは八日後の五月六日だった。桟橋に光機関長となっていたベルリン大使館の陸軍武官補佐官の山本大佐の姿を認めると、ボースは桟橋をかけおり、山本大佐を抱き締め「私はこの喜ぴを天地と神に感謝する」と言って大佐の手を強く握りしめた。

 五日後の五月十一日、ボースは山本大佐などと東京へ向った。ペナン、サイゴン、マニラ、台北、そして浜松を経由したが、ボースの日本行きは最高機密であり、ポースは途中では宿舎を一歩も出ず、髭も伸ばしたままで、「松田」という日本名を使用した。その名前はゾロアスター教の善神で光の神MAZDAからとったものだった。

 イ26号を離艦するにあたり将兵に対する感謝の言葉

「この潜水艦の旅は非常に輪快だった。この旅を可能にしてくれた大日本帝国政府に多大な感謝を申し上げたい。潜水艦司令は私と副官に旅の全行程で家庭にあるかと思わせる扱いをしていただいた。ここに司令以下すべての乗員が我々に示してくれた好誼に心からの感謝の念を捧げたい。この艦による航毎は私の全生涯にわたり素晴らしい思い出として残るだろう。私はこの航海が勝利と平和への一歩であることを信ずるものである。スバス。チャンドラ・ボース」

 ビハリ・ボース氏との対面

 五月十六日、東京に到着、ボースの宿は帝国ホテルに用意されていた。翌日、参謀本部情報部長の有末精三少将に案内され、ただちに杉山元陸軍参謀総長を訪れたボースは、開口一番「日本はアッツ、キスカを占領する兵力があるのに、なぜただちにインドに進攻しないのですか。日本軍の支援を得て私を先頭にインド国民軍がベンガルに進攻、チッタゴンあたりに国民軍の旗を立てさえすれば、かならず全インドは我々に呼応して反乱し、イギリスはインドから出ていかざるを得なくなります」と、思うところを語った。有末少将はポースのインド独立にかける意気込みを知らされた思いがした。インド駐在武官の経験もある杉山総長は、インド進攻作戦に以前から積極的だったが、参謀本部作戦謀では広いインドの作戦は大兵カが必要と考え実行を躊躇していたから、返事のしように困り、かたわらの有末少将に「なにか適当な答えはないかね」と、少々困惑の体であった。

 しかし、杉山参謀総長は一時間奈りの会談で、すっかりボースの人物に魅了され、全面的支援を約束し、激励した。その後嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外相等とつぎつぎに会談し、協力の約束を得ることができたが、陸軍大臣を兼ねていた肝腎の東条首相にはなかなか合うことができなかった。その埋由は、インド独立連盟(IIL)インド国民軍(INA)が日本からの援助要請はしても、常に日本からの独立性を保とうとしたことと、ポースが国民会議派左派の領袖であり、社会主義的傾向を持っていると聴いていたためだったと言われている。

 東案英機首相との会見を待つポースを慰めるため、ある日杉山参謀総長はポースと星ヶ丘茶寮に昼食をともにした。この席には二十八年前に日本に亡命し、参謀本部のバックアップでインド独立連盟総裁に就任していたラス・ビハリ・ボースも招かれていた。これは二人のボースの関係を見定め、親和を図る意味もあった。が、スバス・チャンドラ・ボースはラス・ビハリ・ボースに対し、常に独立運動の先輩に対する敬意を払い、階段の昇り隆りにはビハリ・ボースの手をとり、上着をかけるような気配りをし、ビハリ・ボースは乾杯の音頭はかならずチャンドラ・ボースに譲り、本国の独立運動の指導者に対する尊敬の念を表していた。この光景を目のあたりにした時の言い知れぬ安心感と感激を列席した有末少将は今もって記憶している。

 日本、独立支援を確約

 六月十日、東条首相との会見が実現した。東条首相はボースに会うとたちまちその入物に魅せられ、「さすがに英雄だね、頼もしい人物だ。インド国民軍を指揮する資格は十分にある」と感想を述べている。ボースにはさわやかな弁舌、高度な知識の他に、風采、容貌、表情に独自の魔力にも似た人を惹きつける空気を持っており、たいていの人間を初対面で魅了することができた。それは若くしてガンジー、ネルーと並ぶ会議派の巨頭となり、大衆政治家として衆望を集めた大きな要素であった。四日後、第二回目の会談が行なわれ、率直な話し合いとなり、ボースが「日本は我々の独立にヒモのつかない援助をしてくれますか」とずばりたずねると、東条首相は快諸し、そしてポースが傍聴した帝国議会の演説で「我々は日本がインドの独立を援助するために、可能な限りをつくすよう、ここにかたく決意するものであります」と明確な約束をした。

 それまで秘密にされていたポースの日本滞在が六月二十日の新聞ではじめて公表され、大東亜共果圏のために戦っていると考えていた日本の国民各層にある種のセンセーションで迎えられた。この時、新聞に掲載された日本国民に対する声明で、ボースは次のように語っている。

「日本こそは十九世紀にアジアを襲った侵略の潮流を食い止めようとした東亜で最初の強国であった。一九○五年のロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点であり、それはインドの大衆に熱狂的に迎えられたのであった。アジアの復興にとって過去において必要であったように現在も強力な日本が必要である。――インド人大衆は独立運動の埋論闘争には何らの関心を示さず、ただ一筋にインドの政治的・経済的解放を熱望しているのであるから、当然インドの独立を支援してくれる勢力はすべてインドの友である」

 さらに六月二十一日、ボースは東京から祖国インドに向けた最初の放送を行ない、次のように呼びかけている。

「インド人たちよ、私はいま東京に在る。大戦が勃発したとき、会議派のある者は、圧力と妥協によってイギリスから自治と独立への譲歩が引き出せると考えた。しかしイギリス帝国主義は徴動もしていない。イギリスが自発的に植民地を放棄すると期待することこそ真夏の夜の夢にすぎない。一九四一年から四二年に行なわれたような引き伸ばし交渉は、独立闘争を横道にそらせ、インド人の独立意識を低めるために計画されただけだ。われわれの独立に妥協は許されない。真に自由を欲するものは、自らの血をもって戦い取らねばならぬ」

 インド独立連盟総裁・インド国民軍最高司令官に就任

 約ニヵ月の東京滞在は大きな成果をおさめ、七月二日、チャンドラ・ボースはビハリ・ボースを伴い、日本占領下のシンガポールに姿を現した。空港にはインド独立連盟やインド国民軍の首脳陣ほか大勢の在住インド人が出迎え、熱狂的歓迎をくりひろげた。白い背広姿で飛行機から降り立ったポースはインドの少女から花輪を首に飾られ、国民軍将兵を閲兵した。

 二日後の七月四日、インド独立連盟の大会が挙行され、総裁のビハリ・ボースがチャンドラ・ボースを新総裁に推挙すると、それは満場の拍手で承認された。新総裁として演壇に立ったチャンドラ・ポースは自由インド仮政府樹立計画を発表――インド国民軍の最高指揮官として会場を埋めつくしたインド人に向い、「我々の前途には冷酷な戦闘が待っている。自由を手にするための最後の前進において、諸君は危険と飢渇と苦しい強行軍と、そして死に直面しなければならない。この試練を乗り越えたときのみ、自由が得られるであろう」と訴えると、熱狂したインド人聴衆は「自由インド万歳、ネタジ万歳」の声をあげ続けた。この時以来、チャンドラ・ボースはヒンドゥー語で「統領」あるいは「指導者」という意味の尊称である「ネタジ」と呼ばれるようになるのである。翌五日、マニラから飛来した東条首相とのインド国民軍の分列行進を閲兵し、ポースは将兵たちに次のように呼ぴかけている。

「兵士諸君!これからのわれわれの合い言葉は『チヤロー・デリー』(デリーヘ進軍)としよう。われわれのうち果たして何人が生き残って自由の太陽を仰げるか、私は知らない、しかし私は知っている。われわれが最後の勝利を得ること、そしてわれわれの任務は、生き残った英雄たちがデリーのレッド・フォートで勝利の行進をするまで終らないことを」

インド国民軍の再建

 七月九日、シンガポールの中央公園で開かれた大衆集会には、マレー、シンガポール在住のほとんどのインド人六万人が集まり、開始早々のスコールにもかかわらず、最後まで誰一人として帰ろうとするものはいなかった。ボースは東南アジアすべてのインド人の力を結集することを訴え、インド独立のためには三十万人の兵士と三干万ドルの資金を求めた。集会が終ったとき、ポースの前のテープルには、聴衆の差し出した紙幣や、婦人たちが身につけていた宝石や貴金属が山のように積まれていた。

 この集会で、ポースが女牲も独立の戦いに参加できるよう婦人部隊編成計画を述べると、著い女性たちがその場で続々と志願した。この部隊は、一八五七年のセポイの反乱の指導者でジャンシー王国王妃のラクシュミーバイイーにちなみ、ジャンシー連隊と命名され、隊長には偶然にも王妃と同名の独身の女医ラクシュミ・ソワミナサンが選ばれた。女性部隊は日本軍には想像もできなかったが、ポースは「女性まで独立戦争に銃を執って立つというインド人の決意を示すために必要なのだと言い、この女性部隊に後方勤務だけでなく、戦闘訓練も実施した。

 このように、インド独立連盟の総裁に就任し、インド圏民軍の最高司令官となったボースは四二年末のモハン・シン事件で混乱し、士気の低下していた国民軍の再編成に心を砕いた。ボースは国民軍を単なる部隊ではなく、インド独立軍の中核組織として提え、幹部には時間をかけてその分担と責任を徹底させた。ボース自身は最高司今官ではあったが、軍隊内の階級は持たなかった。かつて英印軍内で階級の下だったものが上級者の上に立つことが、国民軍内で無用の軋操の原因となっていたためであった。一九四三年八月、インド国民軍の新たな陣容が整った。

参謀長    J・K・ボンスレー大佐
作戦部長  シャ・ヌワズ・カーン中佐 作戦・計画・情報。訓練
総務部長  N・S・バガット中佐 管埋行政・ー般命令示達
後方部長  K・p・シッマヤ中佐 補給・整備
教宜部長  ジャハンジール中佐 教育・宣伝
医務部長  A・D・ロガナダン中佐

 ボースはインド国民軍の急速な拡大・整備を望んでいた。国際情勢を得るために睡眠時間を切り詰めても海外の短波放送を聴き、情報の把握と分析に努め、周囲の者が、ネタジはいつ眠るのだろうと思うほどであった。当時の情勢について、ボースは「自分はここにくるのが一年以上も遅れてしまった。その問に日独伊枢軸の優勢も崩れ、英米は日に日に体制を建てなおしつつある。そうなれば長い植民地統治で事大主義に染まっているインド入はイギリスと妥協しようとする傾向が強まるのは必死だ。急がなければならない」と述べている。

 独立国家・対等の同盟軍

 七月二十九日、ラングーンに飛んだポースは、ビルマ方面軍の河辺正三司今官と面談し、「ただちに海岸沿いに、あるいは海路チッタゴン、カルカッタヘ進攻すべきです。その際はインド国民軍を先頭に立てていただきたい。われわれの旗が独立革命の聖地ベンガルに翻りさえすれば、インド民衆はこの旗のもとに集まり、全土に反乱の火が燃えひろがり大混乱に陥るでしょう。そうなればイギリス軍も必ず逃げだします」と、インド進攻を熱心に説いている。河辺司令官には、ボースの即時インド進攻論は無謀とも思えたが、ボースには確固たる考えがあった。方面軍作戦謀長の片倉大佐に対し、ボースは戦略的見通しについて、次のような内容を述べた。

「この戦争を契機にインドの民衆が武装闘争・反乱に踏み切らなくてはインド独立は達成できないことをガンジーに説いたが、ガンジーは反対したため自分は国外に脱出し、援助をドイツや日本に仰いだ。したがって反英独立闘争のためには、イデオロギーに関係なくどの国とも手を組むつもりであること。またインド国民に対する大きな宣伝効果と革命の進撃を促すため、インド国民軍を日本軍に組み入れるのではなく、独自の作戦正面を担当させプほしいこと。そしてこの戦争が長期戦になると思われるので、インド国民軍を拡大し、精強な軍隊にしなければならないこと。同時に国際情勢が枢軸国に不利であるため、インド民衆が連合国側に引きずられ、イギリスとの妥協を防ぐためにも、できるだけ早期にインド進攻を実行すること、そのためにはインド国民軍がインド国内に進撃して独立旗を立て、臨時政府を樹立し、独立運動の急進派を引き込むこと。そしてこの臨時政府を日本が支援すればその勢力はますます拡大すると」

 ボースはインド国民軍を日本の補助部隊ではなく、独立した日本の同盟軍としてできるかぎり対等の立場を堅持することに努めた。インド国民軍の再編成が終った八月に、ボースは日本の南方総軍司令部に軍司令官寺内元師を訪ね、元師から「戦闘は日本軍に任せていただきたい。インドがイギリスの支配から解放されれば、その時独立した領土としてあなたがたに進呈しよう」と言われたボースは「いや、われわれは先頭を努めたいのです。インドの大地に最初に流す血はインド人の血でなければなりません」と決意のほどを述べている。

 インド国民軍が傀儡軍ではなく同盟軍の立場を確保するために、ボースはどうしても譲らなかった問題がある。それは敬礼の問題である。日本軍の中にはあまりにも形式にこだわりすぎるという声もあったが、ボースは「英印軍でも、イギリス兵はインド上級者に対して敬礼します。われわれはこれを勝ちとるために血さえ流したのです」と粘り、ついに認めさせたのである。

 自由インド仮政府

 インド国民軍が独立した国家の軍隊であるためには仮政府樹立が急がれた。東条首相もすでに七月の閲兵の際に原則的同意をしていたが、ついに一九四三年十月二十一日、シンガポールに自由インド仮政府が正式に設立された。東南アジア全域から集まったインド人同胞を前に、ボースは独立宣言を読み上げた。仮政府は日本、ドイツ、イタリア、満州国、フィリピン、タイ、ビルマなどから承認され、二十四日、自由インド仮政府はイギリスとアメリカに対する宣戦布告を発表、ボースが「私は諸君にこの宣戦布告を承認していただきたい。もし諸君がこの世にもっているすべてを投げうち、生命を捧げる用意があるなら、どうか起立してほしい」と叫ぶと、聴衆はこぞって立ち上がり、銃を捧げ、熱狂した「ネタジ万歳!チヤロー・デリー!」の歓声が響きわたった。発足当時の自由インド仮政府は次のような内閣を組織し、ボースは国家首席であると同時に首相と国防相と外相を兼ねていた。

  大蔵大臣 A・C・チャタージ中佐
  宣伝相  S・A・アイヤー
  無任所相 A・M・サハイ
  最高顧問 ラス・ビハリ・ボース
  法律顧問 A・N・シルカル

 大東亜会議

 東京で十一月五日から開かれた大東亜会議に、ボースはオプザーバーとして出席した。出席者は日本の東条首相、中国(南京政府)行政院長汪兆銘、満州国総埋張景恵、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのワンワイタヤコン殿下等であった。ボースがオプザーバーという位置を選んだのは、インドを大東共栄圏には含めないと彼の意見が日本政府の見解と一致したからであった。ボースの人物は出席した国々の人物をまったく圧倒しており、それは二日目にビルマのバ・モウ首相がインドに関する動議を提出し、満場一致で「自由獲得のためのインドの闘争に、同情と全面的支援を与える」という決議を採択したのに答え三十分の演説で最高潮に達した。

 ボースはまず「この決議ははるかに議事堂の壁を越えて、イギリスの圧追下に苦しむわが幾億同胞に希望と感銘をもたらす」と演説をはじめ、最後に次のように述べている。

「インドに関するかぎり、われわれの運命は日本およぴその盟邦の今次大戦における運命と不可分にある。インド国民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や行き残って自由インドを見られるかは問題ではない。ただ一つの関心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドがら駆逐されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章をなることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんことを」

 この演説のあと、東条首相はインド独立の第一段階として、日本軍が占領中のインド領アンダマン、ニコバル諸島を自由インド仮政府に帰属させるという重要な発言を行なった。面積八一○○平方キロ、人口三万三○○○ではあったが、ここに自由インド仮政府は自身の領土を持つ独立国家の形を整えたのである。

 IIL総裁就任演説(一九四三(昭和十八)年六月四日、シンガポールにて)

 しかし今や非暴力、不服従による運動は次の段階に移るべき時期が到来している。イギリス帝国主義に対し、武装して立ち上がることこそ新しい組織の目標であり、目的である。これを実現するためすべてのエネルギーと武力を動員可能にするため、私は自由インド仮政府を組織する計画である。われわれの革命が成就し、アメリカ・イギリス帝国主義者が印度から駆逐されれば、インド仮政府はその使命を終え、インド国内にインド国民の意志により恒久的政府が樹立され、そこで仮政府は新しい政府に政権を譲るであろう。

 征け征けデリーヘ(岩原唯夫氏の資料による)

  一、征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国圏差して
    征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して
    進軍の歌ぞ高鳴る
    我等の勇士よ眦あげて
    見よ翻るよ独立の旗

  二、征け征けデリーよ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して
    征け征けデリーよ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目指して
    聞かずやあの声自由の叫ぴ
    屍踏み越え征けよ強者
    赤き血潮もてわが旗染めん
    征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して

 昭和十九年の春、インパール作戦の成功を予想して編成されたビルマ派遣の大本営特別班に加わった作曲家の古関裕面氏は、ビルマのINAを見学した。この時INAの兵士たちが歌っていた歌を自ら採譜し、日本語の歌詞をつけたものが「征け征けデリーヘ」として日本に紹介された。力強い中に民族独立の悲願がこめられ、日本の軍歌とは異なった雰囲気が伝わってくる。インド語原文は六七貢参照されたい。

 曲は、東京12チャンネルの人気番組「あ丶戦友あ丶軍歌」で復元された。
  
 自由インド仮政府首席就任演説(一九四三(昭和十八)年十月二十一日)

 私は神の御名にかけて、インドとその三億八千万国民を解放することを誓う。私は死の瞬間までこの誓約を守るであろう。私はインド国民の自由のためにはあらゆる努力を傾けるであろう。さらに私はインド解放の後にもインドのためにこの一身を棒げることを誓約する。

 対米英宜戦布告(一九四三年(昭和十八年)十月二十四日、シンガポールからの放送より)

 イギリスはアメリカに助けられている。チャーチルはルーズベルトの前にぴれ伏し、援助を願っているのに、インドが他の国から援助を受けられないということはないのである。

 大東亜会議のボースについての報道(一九四三年十一月五日、東京)

 我がチャンドラ・ポースの存在はこの会議を通じて大東亜地域に大きな光輝となった。彼自身にとっても、この一日こそ、その東亜における二年有奈余の活躍期間における最も栄あるひと時となった。後世の史家が大東亜会議そのものの歴史的価値をいかに批判しようとも、この日全インドの運命を双肩に担って立ったチャンドラ・ポースの確固たる雄姿は、決してその史眼から拭い去られることはないであろう。

 参加者:バー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪精衛(中国南京政府)、ワンワイタヤコン(タイ)、ポセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)

 汪精衛(中国南京政府)のチャンドラ・ボース感

 私はこの程大東亜会議において自由インド仮政府主席S・C・ボース氏に会う幸運に恵まれた。彼は会議の間は沈黙を守っていたが、最後にその所信を披瀝した。堂々たる体殖と魁偉な容貌、精力に溢れ、感動的で知力に満ちた講演者だった。彼は十一回投獄され、断食を七回行った。これらのことが自由の戦士として彼を鍛え上げている。イギリス、ドイツで教育を受けた実に聡明な人物である。

 INA の進軍歌

   Kadam kadam barhae ja 
        kadam kadam barhae ja 
        khushi ke git gae ja 
        ye zindagi hai kaum ki 
        tu kaum pe lutae ja 
               tu sher Hind age barh 
               marne se kabhi na dar 
               falak talak uthake sar
               joshe vata n barhae ja 
        himmat teri barhti rahe 
        khuda teri sunta rahe 
        jo samne tere are 
        tu khak men milae ja 
               chalo Dilli pukar ke 
               kaumi nishan samhal ke 
               Lal kite pe gar ke 
               lahrae ja lahrae ja 

 自由インド仮政府制定国歌   National Anthem (PATRIOTIC SONG) 

       1. Subh SukhChain ki barkha barse; Bharat bhag hai jaga 
          Punjab, Sind, Gujrat, Maratha; Dravid, Utkal, Banga 
          Chanchal Sagar Vindh Himala; Nila Jamuna Ganga 
          Tere nit gun gayen; tujh se jiwan paen; 
          Sab tan paye asha 
 
          Suraj ban kar jag par chamke; Bharat naam subhaga 
          Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho; Jaya, Jaya, Jaya, Jaya Ho, 
          Bharat naam subhaga 
 
       2. Sab ke dil men prit basae; teri mithi bani 
          Har sube ke rahne wale; har mazhab ke prani 
          Sab bhed our farak mita ke; sab god men teri ake, 
          Goondhe prem ki mala 
 
          Suraj ban kar jag par chamke; Bharat naam subhaga 
          Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho, Jaya, Jaya, Jaya, Jaya ho, 
          Bharat naam subhaga 
 
       3. Subh savere pankh pakharu;tere hi gun gayen 
          Bas bhari bharpur hawaen; jiwan men rut layen 
         Sab mil kar Hind pukaren; Jai Azad Hind ke nare piara desh 
          hamara 
 
          Suraj bankar jag par chamke; Bharat naam subhaga 
          Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho, Jaya, Jaya, Jaya, Jaya Ho, 
          Bharat naam subhaga 
 
          Jai Hind 
                          岩村唯夫


  7 インパール作戦(昭和19年1月-10月)


  日印共同作戦-INA進軍 二十一号作戦から「う」号作戦へ

東京で大東亜会議が華々しく開催されたころ、太平洋と東アジアの戦況は大きく変化しようとしていた。アメリカ軍はギルバート諸島に上陸、本格的反攻に転じようとしており、ビルマ戦線ではウィンゲート挺身旅団がアラカン山脈とチンドウィン河を越え日本軍の後方に侵入、鉄道破壊などの撹乱をはじめていた。ビルマ防衛の天険であるアラカン山脈が簡単に突破され、日本軍では英印軍のビルマ奪回作戦の拠点であるインパールを攻略し、防衛戦を西に進める作戦が急に浮ぴ上がった。インド進攻作戦は、以前「二十一号作戦」として検討されたが、日本軍と運合国軍の戦力の差がありすぎるという理由で無期延期されていた。一九四三年(昭和十八年)三月二十七日にビルマ方面軍が創設され、方面軍司今官に河辺中将、麾下の第十五軍司令官に牟田口中将が就任したころから、これがインパール作戦と姿を変え、ふたたぴクローズアップされる。

方面軍や各師団の中には補給の困難さ、英印軍の増強、航空勢力の劣性を理由として作戦実行には多くの困難があるという声も依然として少なくなかったが、第十五軍司令官牟田日廉也中将はインパール作戦の実施を強力に押し進め、河辺ビルマ方面軍司令官も、各方面で意気のあがらない全般的戦況をインド方面の作戦で変えようと考えていた東条首相や杉山参謀総長の意向になるべくなら沿いたいという気持ちだった。六月二十四日にラングーンで以後の作戦構想を決定する兵棋演習が実施された。本来はビルマ防衛強化を目的としていたが、演習はインド北束部の要衝インパールを攻略して防衛線を前進させる構想で進められた。

註 兵棋演習 地図の上で兵力や装備を表わす駒を使って行なう戦闘の図上演習、現在の戦争シミュレーション。

そして八月十二日には大本営が作戦準備を許可し、ビルマ方面軍から第十五軍に対し「う」号作戦と呼ばれるインパール作戦の作戦準備要綱が示され、第十五軍はマンダレー近くのメイミョウで二十五日に兵棋演習を行ない、牟田口司令官はインパール攻略のみならず、さらに北のディマプールまで突進する構想で演習をリードした。八月二十六日、ボースは第十五軍の新参謀長久野村少将と、曽て藤原機関長としてインド国民軍と関係が深かった当時十五軍の参謀の藤原少佐の訪問を受けた。久野村少将はドイツ駐在の経験があり、会談はドイツ語で進められ、ポースは牟田口軍司令官のインパール進攻作戦ではインド国民軍と緊密な連合作戦を行いたいという意向を伝えられた。インド国民軍を率いてインド領内へ進軍する機会を待ちこがれていたボースが勇躍したことは一言うまでもなかった。

ちょうどこの八月、カナダのケベックで行なわれた米英統合参謀長会議で、インドと中国を結ぶビルマルート再開を目指す北部ビルマ奪回作戦が翌一九四四年二月中句実施と決定された。そしてインドのニューデリーに東南アジア連合軍司令部が設置され、司令官にはイギリスのマウントバッテン将軍が任命された。決戦の機は熟していた。

 日印共同作戦

十二月二十八日、南方総軍がインパール作戦決行を決め、翌一九四四年(昭和十九年)一月七日に参謀本部が認可、作戦実施命令が出された。その日の午後、ラングーンのビルマ方面軍司今部を訪れたボースは、河辺司令官の「いよいよ日本軍とインド国民軍が手を携えてインドに進軍するときがきた」というあいさつに、「今ここに神に祈ることがあれば、それは一日も早く祖国のために私の血を流さしめたまえの一念につきる」と決意を述べた。

当初予定されていた二月半ばの作戦開始は、参加師団の到着を待ち三月八日になった。自由インド仮政府とインド国民軍はラングーンヘ進出し、作戦に先立ち日本軍とインド国民軍の合同幕僚会議が作られ、インパール攻略後の、占領地行政が論じられた。ボースは、これまでのように占領地に日本軍が軍政を敷くのではなく、ただちに自由インド仮政府に警察を含め、すべての行政権を与えることを求め、これが認められた。さっそく、ポースは占領地の復興に必要な技術者を葉め、耕作労働者や穀物の種まで用意し、さらに占領地で使う仮政府発行の紙幣の印刷まで行なっている。インド進攻を目指す国民軍は二個師団がすでに編成清みで、一個師団が編成中だった。当時のインド国民軍の建制は次のようになっている。なおインパール作戦に参加したのは第一師団だけであり、その第一連隊の正式名称はネルー運隊だったが、将兵はスバス連隊と呼ぴ、ポースへの敬愛の情を表わしていた。

第一師団 師団長 M・Z・キアニー大佐
第一連隊(スバス連隊)  連隊長シャ・ヌワーズ・カーン中佐
第二連隊(ガンジー連隊) 連隊長I・J・キアニー中佐
第三連隊(アザード連隊) 連隊長グルザラシン中佐
第四連隊           連隊長アルシャッド中佐
第二師団  師団長アーメッド・カーン中佐  マレーから移動中
第三師団  師団長ナガル中佐  シンガポールで編成中

 インド国民軍の進軍

作戦計画の大綱は、第三十一師団がインパールの北百キロのコヒマに突進、第十五師団は東北方面からインパールを攻略し、第三十三師団の山本支隊がパレルからインパールへ突進、第三十三師団主力がトンザンを経て南西からインパールを攻略するというものだった。インド国民軍は、第三十三師団主力の南、チン高地のハカ、ファラム地区の守備につき、その側面を援助するとともに、第四十四、四十五師団がアキャブで展開する攻撃の目標がチッタゴンであるように見せかける陽動作戦と呼応し、海岸沿いにチッタゴン方面に進撃することになった。ボースはラングーンから戦線に出発するすべての部隊を閲兵した。インド国民軍の将兵はいっせいに「チヤロー・デリー」の歓声で激励に応え、マンダレーヘ進発した。

磯田中将が機関長となった光機関は作戦開始に先立って、国民軍の志願兵で編成した工作隊を各方面に進出させた。英印軍の配置を探り、気候、地形などの作戦情報を入手し、食糧確保のための住民工作がその任務だった。

ある工作隊は、前面の英印軍のイギリス人大隊長が司令部に出かけて留守であるという情報を入手し、武器を持たず光機関員とともに寝返りの説得に行った。接近し英印軍が射撃をはじめると、国民軍工作員が光機関員の前に出て、ヒンドゥー語で「日本人を殺すな!われわれインド人の独立のために戦っているんだ!」と叫ぶと、射撃は一時は正むが、今度は声のする方に射ってくる。すると光機関員が立ち上がってヒンドゥー語で「同胞を射つな。射つならまず俺を射て、俺はお前たちに話に行くところだ。武器は持っていない」と叫ぶ。このくりかえしに相手は根負けし、とうとう留守番のインド人副隊長の所へ案内され、一晩がかりで日説き落とし、ついに一個大隊全部が国民軍に寝返るということも起きている。

立体防御の円筒形陣地

しかし、作戦開始予定日である三月八日の三目前の五日、北部ビルマにウィングート旅団の侵入が行なわれた。八十三機の輪送機と八十機のグライダーによる二個旅団による大規模なもので、強力な戦闘機による支援を受けていた。ビルマ方面軍の航空戦力は爆撃機と戦闘機をあわせて百機に満たなく、大部分をウィンゲート部隊の攻撃に向けたため、インパール作戦の地上部隊に対する支援にはごくわずかしか振り向けられなかった。
作戦開始直後、作戦は順調に推移し、一度はコヒマの一部を日本軍が奪ったが、英印軍は円筒形陣地を構築し、頑強な抵抗を続けた。分断包囲されると直径十数キロの円形に集結し、中央に重砲を置き、円周には戦車と機関銃を配置して日本軍の突撃を退けようとするもので、食料・弾薬は毎日のように輸送機で空輸するという、これまでの常識では考えられなかった空陸共同の立体的防衛戦闘法である。日本軍の各師団は険しい山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数しか携行しなかった。三週間でインパールを攻略する予定でいたため、弾薬も最小限しか持たず、二十日分の食料しか用意していなかった。

スリム中将の指揮する東部インド国境を守る英印軍の基本構想は、人的損害を避け、分断・包囲にあえば円筒形陣地を構築したり後方の拠点に後退し、満足な装備を持ずに日本アルプスに匹敵するビルマ西部の山岳地帯を越え、補給線の伸ぴた日本軍を平野部の出口で迎え撃つというものだった。シンゼイワに陽動作戦を実施した第五十五師団の花谷正師団長は、前線を訪れた方面軍情報参謀の全富興志二少佐に、「むこうの師団長は豪気なもんだよ。毎日八時になるときちんと天幕から出てきて、犬をつれて円形陣地の中を散歩してござる」と苦笑しながら語っている。日本軍は食料や弾薬の補給をほとんど得られず、孤立しているとはいえ豊富な支援を受ける円筒形陣地にてこずったのである。

インパール作戦は牟田口中将の考えていたように二十日間で終了しなかった。第三十三師団は逃げ遅れた第十七インド師団を包囲したが、頑強な抵抗を受け、戦車連隊などの増援を得た敵の反撃にあい、三月末に退路を開放してしまった。三月十九日に国境を突破した第十五師団は二十三日にはインパール東北のサンジャック前面に進出、二十九日にはコヒマヘの街道を遮断したが、英印軍の猛反撃に阻正され、それ以上進むことができず、牟田口軍司令官から前進が遅いという叱責の電報を受けとっている。また北からコヒマに向った第三十一師団は三月二十一日にウクルルを占領し、二十二日にはサンジャック北側の高地を攻撃したが攻略には失敗した。四月五日、宮崎少将指揮下の第三十一師団の支隊はコヒマの一角に突入したが、南西に強靱な円筒形陣地を築いた英印軍は増援軍を加えて反撃し、両軍は死闘を繰り返していた。

最大の敵、雨期到来

一九四四年(昭和十九年)四月六日、戦線はすでに膠着状態を呈していたが、ポースは司令部をメイミョウに前進させるため、ラングーンを出発した。インパール占領に備え自由インド仮政府の行政機関を運営する人員も同行していた。戦場の正確な状況を知ることができず、第十五軍司令部からの勇ましい報告しか入っていなかったためだった。このころ第十五軍の司令部ではコヒマ占領が完全にできたと判断し、ディマプール進軍を命じたが、独走を懸念したビルマ方面軍は追撃中止を命じている。戦線の近くに進出したボースは、軍司令部で聞いたのとは様子が異なるのを知り、インパール作戦の難行に気がついたらしい。五月十目、インド本国でとらわれていたガンジーの釈放を知ったポースは、これはイギリス軍が日本軍に対する勝利の目安をつけたためと判断し、ビルマ方面軍の河辺司令官にあてて、インパール攻略の強行とインド国民軍の増強を改めて強調する電報を打っている。

チン高地を制圧したスバス連隊の第一大隊は五月十六日、第三十一師団支援のためコヒマヘの転進命令を受けた。コヒマまでは途中にナガ山地を越え五百キロを越す距難を踏破しなければならなかったが、祖国進軍に勇躍した国民軍は、入院中の兵士が病院を抜け出してまで参加して出発した。しかし、補給が満足に準備されていなかったため、国民軍が進軍を開始してからは、一粒の米も支給されなかった。

これはインド国民軍に限らす、日本軍将兵への補給も同様だったが、作戦のための移動は自動車で行ない、食料の補給は指揮官の責任で行なわれるものと考える国民軍の将兵にとって常識を外れた現象だった。国民軍と行動を共にしていた光機関の将校は、武土は食わねど爪楊枝、補給がなければ現地でなんとかするという日本軍の考え方との板挟みになっていた。光機関の将校は大部分が中尉か少尉だったが、任務はインド国民軍に対する「内面指導」を行なうことあるとされていた。しかしインド国民軍では単なるリエゾンオフィサー(連絡将校)として扱い、インド国民軍の要求を日本軍の上部機関に伝えることがその任務であると考えていたことからくる行き違いもそれに加わっていた。

さらに日本軍とインド国民軍の行動を困難にしたのは雨期の早期到来だった。インドとビルマの国境地帯は年間雨量は八千ミリにも達し、現地人が「虎も出歩かない」というほど強い雨が続く。道路は寸断され、乾期の小川が濁流となり、低地はたちまち泥沼と化してしまう。例年雨期の最盛期は六月から八月にかけてだが、この年は四月に入ると雨期が本格化し、英印軍にはプルドーザーなどの機械力があったが、日本軍とインド国民軍には人手に頼る人海戦術しか方法がなく、補給なしで山地で行動する兵士たちの体力をさらに消耗した。

補給なき戦い

シャ・ヌワーズ・カーン中佐の指揮するスバス連隊は半月の雨中の難行軍の末、六月はじめコヒマの南に到着した。しかし、五月二十五日、第三十一師団の佐藤幸徳師団長は、第十五軍から一ケ月も一発の弾丸、一粒の米も補給されないことを激怒し、「六月一日までにはコヒマを撤退し、補給を受けられる地点に向い移動する」という電報を軍司令部にすでに打電していた。牟田口軍司令官が翻意を促したが、佐藤師団長は、「善戦敢闘六十日におよぴ人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。――いずれの目にか再ぴ来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と返電し、師団に撤退を命じた。

佐藤師団長はシャ・ヌワーズ・カーン中佐を訪れ、師団とともに撤退することを勧めたが、中佐は「自分も部下もはじめて踏んだこの祖国の地から去ることはできない」と抗議し、「インパール攻略はいずれ再開されるから、その時に本分を尽くせ」という説得にも耳を貸さず、インド国民軍第一師団司令部の位置まで後過し、その指揮下に復帰することを申し出た。この申し出が六月二十二日に許可されたことを聴いたポースはすぐにビルマ方面軍の河辺司令官を訪れ、「ただちに第一線へ視察と激励のため出発したい」と伝え、危険であると引き止める河辺司令官に、「残りの国民部隊をすべて第一線に投入したい。婦人部隊のジャンシー連隊も同様です。われわれは戦いがいかに困難であり、どんなに長引こうとも、いささかも士気に変わりはなく、独立の大義達成のためこれくらいの犠牲は甘受し、日本軍と協力して目的を完遂したい」という決意を述べている。

 インパール作戦の中止

雨期の最盛期の撤退行でスバス連隊は半数近い犠牲を出しながら、ガンジー連隊、アザード連隊への支援合流を目指してタムに到着したが、そこで聞いたのは命令変更で国民軍第一師団には復帰できないということだった。シャ・ヌワーズ・力ーン中佐たちは、ことここに至っては日本軍と行動を共にせず、スバス連隊は独自にイギリス軍と戦おうという決心をした。電報でこれを知らされたボースがカレワヘの撤退命令を出し、スバス連隊はやっとそれに従ったのである。

パレルの英印軍航空基地正面に進出したが、追撃砲だけの装備で敵の圧倒的な砲火に撃退させられ、崩壊に瀬していた山本支隊を支えていたガンジー連隊とアザード連隊も、補給の少なさに悩まされていた。道路が通じていたためときどき補給が行なわれたが、十分ではなく、ヒンドゥー教徒の最高の禁忌である水牛を殺して食べるほどだった。いったん国民軍に投降した英印軍の兵士が、「独立の大義は埋解できたが、こんな生活では将来に希望がまったくない」という置き手紙を残して姿を消したこともあった。

敵に退路を開放し、作戦失敗を悟った第三十三師団の柳田師団長は作戦中止を具申し、牟田日軍司令官から指揮権を剥奪され、すでに五月九日に解任されていた。重病の第十五師団の山内師団長も五月十五日に更迭され、独断撤遇命令を出した第三十一師団の佐藤師団長も七月七日に解任された。第十五軍は指揮下の三個師団の全師団長が作戦中に解任あるいは更迭されるという異常な事態となって、だれの目にもインパール作戦の失敗は明らかだった。ビルマ方面軍が第十五軍のインパール作戦を中止し、チンドウィン河の線まで撤退する命令が出されたのは七月十二日だったが、日本軍とインド国民軍の将兵には、陸空からの追撃を受けながら雨中の敗走が残されていた。

インパール作戦には約六千名のインド国民軍の将兵が参加した。チンドウィン河に到着したのはわずか二千六百名で、その内二千名はただちに入院が必要だった。四百名が戦死し、千五百名が飢餓と病気で死亡し、八百名が衰弱してイギリス軍の捕虜となり、残りの七百名が行方不明となった。

この作戦がいかに悲惨であったかはそれ以外の損害の比率にはっきりと表れている。


 インド国内の同志への呼びかけ(ボースのラジオ放送)


     一九四四年三月初旬、シャヌワーズカーン中佐の率いるINA一個連隊がハカ、ファ
ラム地区に進み、インド国内に進出した。この呼ぴかけは、三月二十日、ボースが
ラングーンから自由インド放送を通じインド国内の同志に対して行なったものである

自由インド仮政府の率いるインド国民軍は、日本草軍との密接なる強力のもとに、聖なる使命に出発した。日印同盟軍が国境を越えインド進軍を開始したこの歴史的な瞬間にあたり、自由インド仮政府は次のように声明する。 一八五七年の戦いにインド軍はイギリスの侵略軍に敗れたが、インド民衆はイギリスの支配に精神的には降伏はしなかった。非人道的な抑圧や強制的な武器剥奪にもかかわらず、インド民衆はイギリスの支配に対して抵抗を継続し続けた。宣伝、煽動、テロ、サボタージュといった手段、そして武力による抵抗、あるいは最近のマハトマ・ガンジーに指導されたサチャグラハの不服従運動により、単に独立闘争を継続しただけでなく、自由獲得の目的に向かい、大きな前進を遂げている。

この大戦が始まってから、インド民衆と指導者はイギリスから平和のうちに自由獲得のためにあらゆる手段を尽くした。しかし、イギリスは帝国主義戦争遂行のためのインドの支配をますます強化し、あらゆる搾取と非道な抑圧によりインドを巨大な軍事基地化し、オーストリア、アメリカ、重慶、アフリカから軍隊を呼び、疲弊したインド民衆にさらに耐えられないほどの負担を課し、インド各地にこれまでにない飢饉を発生させている。

インドを戦火の災害から救う最後の試みとして、マハトマ・ガンジーはイギリス政府に対し、インド独立の要求を認め、インドから撤退することを勧吉した。しかしイギリスはガンジーや数万の愛国者の投獄でこれに答えた。イギリス政府の非道はガンジー婦人の獄死にその極に達した。

悪化する一方のインドの状況を目にしたアジア在住三百万のインド人は、祖国解放のため国内で戦うインド民衆に積極的に呼応参加するため厳粛な決意をした。いまや政治目的のためにインド独立連盟が設立し、インド解放の軍隊であるインド国民軍が編成され、一九四三年十月二十一日には自由インド仮政府が樹立した。インド国民軍は着々と準備を整え、一九四四年二月四日にはビルマのアラカン地区において祖国解放の闘争を開始した。

この戦闘における日印同盟軍の成功によって、いまやインド国民軍は国境を越えデリーヘの進撃を続けている。大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの僕滅を期し、さらにインドの完全な無条件の独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。

いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定している。

自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。

自由インド仮政府は、兄弟たちがわれわれの解放を目指す日本とインドの両国に対し直接、間接に援助を与えることを要請する。自由インド仮政府は、全インド人が組織的サボタージュによって敵の戦争遂行を阻止し、自由獲得の闘争が一日も早く達成されることを要請する。

さらにわが兄弟である敵陣営のインド人将兵が、暴虐な支配者のための戦いを拒否し、すみやかにわが陣営に参加することを要請する。われわれは、イギリス政府に勤務するインド人官吏が、聖なる戦いにおいてわれわれに協力することを要請する。われわれはインド民衆が英米の手先でないかぎり、恐れるものは何もないことを保証し、解放地区には自由インド仮政府を樹立し行政を行なうことを保証する。
自由インド仮政府は、同胞のインド民衆に対し、英米の飛行場、軍需工場、軍港、軍事施設から遠ざかり、われわれの敵撃滅の戦いの巻き添えにならぬように勧告する。
兄弟姉妹諸君、いまや待ち望んだ自由実現の絶好の機会が訪れている。諸君がこの機会を利用しその任務を遂行すれば、自由は遠からず達成されるであろう。この重大なときにあたり、インドはインド人がその義務を果たすことを期待しているのである。
ジャイ・ヒンド!
自由インド仮政府首席
インド国民軍最高司令官
スバス・チャンドラ・ボース


ジャンシー連隊隊員への特別教書
           (一九四四年五月十四日INAの女性軍に向けての手紙による声明)


姉妹たちよ
ラニ・オプ・ジャンシー連隊の編成は、われわれの自由への戦いの歴史において独自の重要性を持つ事柄である。インド国民軍の兄弟たちと同様、皆さんは祖国に奉仕し、祖国の自由のために戦うためにやってこられた。家庭から離れ、母なる祖国を変えるための祭壇に命を捧げて欲しいと求めたことに、私は重大な責任を感じている。この責任から私は連隊の活動と進歩に常に関心を抱いてきた皆さんの上に神の加護があらんことを、そして永遠に栄えある祖国の自由への戦いで価値ある役割を果たされんことを私は日夜祈り続けている。すべての父、はは、保護者たちが我々の手の中にある娘たちが安全であるかと気遣うように、私はこの連隊を見守り、育むことに努めてきた。この重大な責任は皆さんの全面的な協力があってはじめて私に可能だ。そのためには、皆さんも祖国インドの真の娘として義務を達成できる教靱さを授かるように日夜神に祈り続けなければならない。これまで皆さんが成し遂げた成果から、私はジャンシー連隊が成功への道を切り開き、インドの自由のための戦いの歴史の中で確固たる場所を占めるであろうことを確信する。今インドが必要としているのは一人のジャンシーにおけるラニではなく、何千のラニが必要であると、これまで何度となく語ってきた。貴女がたのすべて、貴女方の一人一人が、フランスの不滅と名声に貫献したジャンヌ・ダルクと同様に、そしてバラト・マタのためにジャンシーのラニ・ラクシュミ・バイと同様に祖国のために働くことを願う。その名誉と栄光は、貴女がたがインド解放のために喜んでその命を捧げる時、はじめて得られる。その日は、貴女がたが兄弟たちと同様に祖国のために血を流した峙、はじめて訪れることを銘記して欲しい。そのためには、軍事的、精神的な厳しい訓練がともに必要である。ラングーンからジャンシー連隊の最初の前線派遣が既に開始されている。さらに大規模な部隊が、来るべき攻勢で前線に進出し、積極的に参加するため、昭南(シンガポール)で移動可能になるのを、熱心に、待ち切れない様子で待機している。過去二十年間、私はインドの女性たちが成し遂げたものを知っている。インドの女性たちに不可能な任務、不可能な犠牲的行為は存在しないことを私は知っている。それが、私が貴女方に満幅の信頼を置く理由に他ならない。それが、ジャンシー連隊を編成するという歴史的段階に踏み出すことを確信する埋歯に他ならない。貴女がたの一人一人が、それぞれにこの信頼を私と分かちあうことを確信している。今行なわれている貴女がたの訓練、貴女がたの将来の成功、そして勝利を私は望んでいる。
ジャイ・ヒンド
一九四四年五月十四日
ビルマの総司令部において
スバス・チャンドラ・ポース


インドを生かすために死を


「今、我々はたった一つの願いを持たなければならない――その願いとは、インドを生か
すために死ぬという願いである――殉教者としての死に正面からぶつかることで、自由ヘ
の路は、殉教者の血で固められるからだ」とネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは、一九四
四年七月四日、ネタジ週間の最初の日に駆けつけたビルマ在住のインド人の巨大な群衆
を前に宣言した。
感動的な七十五分の演説で、ネタジは自由への戦いに人と物を限りなく差し出すことを
めた。その一年の運動の進展を振り返り、近い将来に向っての運動の必然性を説いたこ
の演説の間、途方もない熱狂と荒々しい喝采が沸き起こった。以下はその演説からの抜粋
である。(サラト・ボース・アカデミー発行 『ネタジ資料集一九五八年版』 編葉者の言葉) 友よ、十ニヵ月前、新たな総動員と総犠牲の計画が塔東南アジアのインド人に提出された。今日、私は諸君に過ぎし一年の運動の進展の成果と来たるべき一年に諸君に求めるものを呈示したい。

しかしその前に、我々が自由への勝利に至る輝かしい機会を持っていることを諸君は理解して欲しい。現在イギリスは世界規模の戦争に巻き込まれ、多くの戦線で敗北に次ぐ敗北を重ねている。敵は相対的に弱体化し、自由への我々の闘いは五年前に比べ非常に楽なものとなっている。これは神が授けた百年に一度のこの上ない好機である。我々は祖国をイギリスの軛(くぴき)から解放する好機を完全に利用しなければならない。

私はこの戦いの結果に大いなる希望を待ち、たいへん楽観している。というのも私はただ単に東南アジアの三百万のインド人の努力だけを頼りにしているからではなく、インド国内において巨大な運動が進行中であり、解放に近づくため祖国の数百万の人々が最大の協力と献身を準備しているからだ。

不運にも、一八五七年の偉大なる戦い以来、敵が隙間なく武装しているにもかかわらず、祖国の人々は武装を解除されてきた。この近代社会において、武装解除された国民が武器、それも近代的な武器を持たずに自由を勝ち取ることは不可能である。だが、神の佑けと寛大なる日本の援助により、東アジアのインド人は武器を獲得近代的軍隊を建設できることとなった。

さらに東アジアでは、インド国内でイギリスが盛んに工作を進めている宗教的なあるいはその他の差別が全く存在せず、東インドのインド人は自由を勝ち取ろうとする一人の人間のように一致団結している。今、我々の闘争を有利に押し進める状況と、すべてのインド人が解放の代償を進んで支払おうとしている理想的状況に我々がいるのは当然なのである。

総動員計画に基づき、私は諸君に兵士と、資金と物資を求める。兵士に関して、私は既に満足できる志願があったことを喜ぴをもって伝えたい。

志願兵は東アジアのあらゆる場所、中国、日本、インドシナ、フィリピン、ジャワ、ボルネオ、スマトラ、マラヤ、タイ、ビルマから参集している。

私が抱いているただ一つの不満は、ビルマにおけるインド人の人口を考えると、そこからの志願兵が多すぎるに違いないだろうという点だ。

諸君はこの地域から将来においてさらに多くの志願兵が出るように努力していただきたい。

資金について、私は東アジアのインド人に三千万ポンドを求めた。そして実際にはそれ以上を受け取り、申し出からは将来の資金の流れが確実であることを確信している。

インド国内における二十年以上の活動の経験で、この地で私はそれ以上の成果をあげることができた。私は諸君が差し伸べてくれた心の篭った協力に感謝の意を表したい。と同時に、我々の前途にはさらに責務が横たわっていることに注意を促したい。

諸君は兵士と資金と物資の動員計画に偉大なる努力と熱意を注ぎ統けていただきたい。そうすれば物資の供給と輸送の問題の解決は満足できるものとなるだろう。

次に解放された地域の管埋と再建にあらゆる分野に多くの男女が必要である。我々は、敵がビルマの特定の地域から撤退する際、地域の人々がそこにいられなくするため、無情な焦土作戦を採る状況に備えなければならない。

最後に、最も重要な、前線に兵士を増援し物資を補給する問題がある。さもなければ我々の望むインド進攻は不可能である。

諸君のうち、後方で活動を続けるものは、東アジア特に解放戦線の基地を形成するビルマを決して忘れてはならない。基地が強力でなければ、戦闘で勝利を得ることは決してできない。この戦いは単なる二つの軍隊の戦闘ではなく「総力戦」であることを忘れてはならない。わたしがこの一年間にわたって東アジアにおける「総動員計画」を特に強調してきた埋由である。

諸君が基本的に後方をしっかりやって欲しい別の埋由もある。それは、きたる数ヵ月間、私と内閣の戦争委員会は、インド国内における革命の情勢のためにも、前線における戦闘に全精力を傾けたいと願っていることだ。当然それには、我々が不在でも、基地の円滑な中断することのない活動が保証されなければならない。

友よ、一年前私は諸君にいくつかの要求を行い、「総動員計画」が成就すれば「第二戦線」を諸君に与えると言った。私はその約束を履行した。わが勇敢なる部隊は日本軍とともに戦いに続く戦いで敵を圧倒し、現在愛する母国の神聖な地で勇敢に戦っている。

目の前の責務におおいに働いてほしい。私は諸君に兵士と資金と物資も求め、おおいに得ることができた。今、私はさらに多くを求める。兵土と資金と物資は、それだけでは勝利や自由をもたらさない。我々には勇敢なる行為と英雄的な行動に燃え立たせる原動力が必要である。

諸君が生きて自由インドを見ようと願うのは完全な誤りである。それは、今、勝利が我々の手の届くところにあるからだ。今、誰一人として生き残って自由を楽しもうという願いを持ってはならない。我々の眼前には以前として長い戦いが存在している。

今、我々はたった一つの願いを持たなければならない――その願いとは、インドを生かすために死ぬという願いである――殉教者としての死に正面からぶつかることで、自由への路は殉教者の血で固められるからだ。

友よ、我が解放戦争の同志諸君、今日、私は諸君にただ一つものを、至上のものを求める。私は諸君に血を求める。敵の流した血に報復するには血以外にはない。血のみが自由の代償となり得るのだ。私に血を与えよ、私は諸君に自由を約束する。


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8 イワラジ作戦(昭和19年10月-20年8月18日)

http://www.yorozubp.com/netaji/academy/160chalo-j.htm

ネタジと日本人

Bose, Subhas Chandra, 1897-1945

独立印度への道 スバス・チャンドラ・ボース述

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001418248-00

印度の闘争

進めデリーへ / スバス・チャンドラ・ボース著  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1910280

アジアは一つなり

闘へる印度 : S.チヤンドラ・ボース自伝

闘へるインド : S.チャンドラ・自伝 (上のものと同じ少しコンディションが好い)

独立印度への道

決起した印度の真相 河東忠 著 当時のボースと語る (1944)

大東亜会議演説集

チェロ・デリー(進め、デリーへ) ~ インパール作戦

http://www.d1.dion.ne.jp/~hykyugun/TipsonTranslationNo.91_0002.pdf

http://ncode.syosetu.com/n0900co/41/

http://www.teamnetaji.org/

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