Green Father

およそ40年前に撮影された貴重な8ミリフィルムがある。そこはインドの村。一人の日本人が村人達の歓迎をうけていた。深い尊敬のまなざしが注がれているのは、杉山龍丸(すぎやまたつまる)。人は彼をグリーンファーザー、緑の父と呼ぶ。

1961年、龍丸は、イギリスから独立してまもないインドの地を始めて踏んだ。当時インドは決して近い国ではなかった。のちに幾たびも訪れることになるインドの大地だが、最初にその姿を目にした時、42歳だった龍丸は強い衝撃を受けた。飛行機の窓から見えるのはただひたすら砂漠。茶褐色の荒涼とした風景に龍丸は息をのんだ。

「これがインドだ。これがインドか、、、。」

砂漠化が進むインドでは、農作物も育ちにくく、国民の多くが慢性の飢餓状態。雨が少ない年には死者の数は500万人以上にのぼったという。苛酷な現実を目(ま)のあたりにした龍丸は、心に誓った。

『インドの人々を救いたい。』

140億円の資産をインドに捧げた龍丸。その人生とは。インドでグリーンファーザーと呼ばれる杉山龍丸。140億円の資産を緑化に投じたその人生とは。

1919年、龍丸は福岡県に生まれた。父杉山泰道(すぎやまたいどう)は夢野久作(ゆめのきゅうさく)の名で知られる小説家。

伊藤博文(いとうひろぶみ)の懐刀(ふところがたな)だったという。祖父の茂丸(しげまる)は政治の世界で手腕を振るった人物だ。そんな祖父が海外貿易に出向いた際、欧米諸国に食い物にされているアジアの現状を見て、

『いずれ独立した時、国家の礎(いしずえ)になる農業を身につけさせよう』

と、1901年、福岡に4万6千坪の土地を購入。そこを農園とし、アジア各国から留学生を受け入れた。とりわけインドの独立運動を支援していた祖父はガンジーの弟子達に熱心な農業指導を行なった。

龍丸の長男、満丸さんは父の思いをこう記憶している。

「(龍丸が)16歳で爺さんと、曾爺(ひいじい)さんが一緒に死んでいるんですね。だから父からすると親父と爺さんがいっしょに、一年間で死んでいるので、(龍丸が)思春期だから、その時に言い残されたことは強烈だったのではないですか。」

祖父茂丸が言い残した言葉、それは、

「アジアの人々を救いなさい。」

遺言にも似た祖父の意思を引き継ぎ、龍丸はインドが独立国家となってからも留学生を受け入れ続けた。

龍丸36歳の時、一本の電話が彼のその後の運命を変える。インドの初代首相ネールからの電話だった。インドの留学生を多く受け入れていた経緯から、龍丸へ連絡が入ったのだが、その内容とは、

「インドを助けて欲しい。」

砂漠化が進むインドでは農作物も育ちにくく、国民の多くが慢性の飢餓状態にあった。

龍丸はインドへ飛んだ。

飢餓を救うのは農業だ。だがそれには水が不可欠だった。砂漠を緑に変えるような水を求めて龍丸は来る日も来る日も奔走(ほんそう)する。だが、乾いた大地を農地に変えられるような水源はどこにも見当たらない。あきらめかけたその時、奇妙な光景が目に映った。

炎天下の砂漠で家畜の牛達が休んでいる場所がある。

「近くには木陰があるというのになぜだ。」

龍丸が、牛が休んでいた場所を掘ってみると、そこにかすかな湿り気を感じたのだ。

『砂漠にも水がある。』

たとえ表面が乾いていても地下水が流れる所があるのだ。龍丸はその砂漠に木を植えようと考えた。目をつけたのはオーストラリアの砂漠で元気に育っていたユーカリ。

『暑さに強く、成長も早いユーカリが地下水を吸い上げれば地表も潤い、作物も育てられるのではないか。』

龍丸はそう考えたのだ。

さらに、実はインドの国土はヒマラヤ山脈の裾野を走っている。ならば、ヒマラヤから地下水が流れている可能性の高い国道1号線沿いに植えたほうがいい。そこで龍丸は自ら国道沿いの村々を訪ね歩き協力を求めた。

「一緒に作物を作り、豊かになろう。」

ところが、人々の反応は冷たかった。ユーカリの効果を力説する龍丸に誰も耳を貸そうとしない。今を生きるのに精一杯だったのだ。それでも龍丸はあきらめなかった。

『ユーカリが育てば彼等を救えるにちがいない。』

孤独な闘いを支えていたのは祖父から受け継いだ信念だけだった。インドの焼けるような暑さの中自分の飲み水もユーカリに与えて植え続けた。すると、

「よいしょ。どっこいしょ。」

人々か変わり始めた。

『遠く日本からやってきたこの男を信じてみよう。』

荒涼とした砂漠にいつしか日本語の掛け声が溢れていった。

そして今、不毛の大地と言われていた国道の両脇には緑のユーカリだ。木々の高さは15メートルにも達した。

龍丸が思い描いた未来は現実のものとなったのだ。巨木は地下水を吸い上げ、大地を潤し街路樹が並ぶ道は470kmにも及んだ。ユーカリがもたらす恵みの水は、周辺での稲作、さらには麦や芋の栽培などを可能にし、飢餓による死者は確実に減った。

「私達がこうして暮らしていけるのも、すべて豊かな緑のおかげです。」

龍丸のシンプルな植林技術は、村から村へ、人から人へと伝えられたのである。だが、龍丸の行動はこれだけに留(とど)まらなかった。

飢餓を引き起こす要因、インドの砂漠化を止めることを考えたのだ。砂漠化の根源、それはシュワリック・レンジ。

シュワリック・レンジはインド北部、ヒマラヤ山脈の高地に広がる丘陵地帯、そこは日夜土砂の崩落が進み、くずれた小石や砂が砂漠の拡大に拍車をかけているのだ。

龍丸はやはり、ユーカリが役に立つと考えた。地中にユーカリが根を張れば、土砂の崩落も防げる。しかし、それはたやすいことではなかった。

シュワリック・レンジは前長3000キロ。日本列島を越える。ここにユーカリを植えるには莫大な費用と時間がかかってしまう。ところが龍丸は平然とこう言ったのだ。

「何も問題はない。不可能と思わなければすべて可能だ。」

なんと龍丸は祖父が福岡に残してくれた広大な農園を総て売り払い、そのお金をユーカリの植林費用の一部につぎ込んだのである。一部と言ってもそのスケールは半端ではない。現在の価値にして、およそ140億円。

だが龍丸にすれば、それは祖父の言葉に従っただけのこと。

「アジアの人々を救いなさい」

龍丸はこの難事業に己の人生さえかけていた。インドを飢餓から救うには砂漠化の元凶を経つしかない。気力をふりしぼってユーカリを植え続ける日々が延々と続いた。

しかし、その壮大な計画に龍丸の体はついていくことが出来なかった。脳溢血で倒れた龍丸は志(こころざし)半ばで帰らぬ人となる。享年68。息子の満丸さんは父親の執念に驚いたという。

「倒れた時にですね。すごかったですよ。ウーウーって言って唇をくいちぎるぐらい。悔しそうな表情をずっとしてて、まだやり残したことがあるんだぁみたいな感じの中で2年2ヶ月闘い続けて亡くなりったような感じでした。」

シュワリック・レンジ。時を経て、土砂崩れが頻発していた丘稜地帯は今、みごとな緑に覆われている。瓦礫だらけのもろい大地が、植林によって生まれ変わったのだ。

祖父の教えを守りぬいた龍丸。村人達の暮らしに豊かさをもたらした彼の思いはインドの人々の心に息づいている。

「私達は誓いました。杉山さんが命をかけて残してくれたこの緑を我々も命がけで守り抜くことを。」

「不可能と思わなければすべて可能だ」

不屈の挑戦。それが龍丸の人生だった。インドではこう言い伝えられている。

「独立の父ガンジー。緑の父タツマル・スギヤマ」

杉山茂丸とラス・ビハリ・ボースとの関わり      

杉山 満丸

杉山家に遺るラス・ビハリ・ボースの肖像画と写真を並べてみました。 似ていると思うのですが、いかがでしょうか? ボースについてご存じない方はこちらをどうぞ。 

数百年にわたり西欧の植民地になってきたインドでは、日本が日露戦争に勝ったことを契機として、植民地からの解放運動(独立運動)が盛り上がったといいます。(2007年福岡アジア大賞受賞者 アシシュ・ナンディ氏談) アシシュ・ナンディ氏についてはこちらをどうぞ。

インドで、よく知られる話として、インド独立後に首相を務めたネルーは、日露戦争で、日本がロシアに勝ったことによってインドの植民地解放運動に参加することを決意したといわれているそうです。(ナンディ氏談)  日本で知られるガンジーは穏健派でしたが、ガンジー以外にも多くの運動家がインドにはいたそうです。そのうちの一人がラス・ビハリ・ボースなのです。  

彼は、「チャールズ・ハーディングインド総督暗殺未遂事件」や「ラホール蜂起」の首謀者とされ、イギリス植民地政府に追われ、偽名をつかって1914年に日本に亡命してきました。  そして、日本亡命後は、玄洋社を中心とするアジアの植民地解放運動を支援するグループと連絡を取り、そのネットワークの中で、孫文などとも交流をしたようです。(杉山家に遺る口伝)  

当時大英帝国と同盟関係(日英同盟)にあった日本政府は、イギス政府の要求に応じて来日してわずか4か月のボースに国外退去を命令をだします。それも、香港行きの船しか出ない週を指定して国外退去処分としたのです。  香港はイギリスの植民地です。ボースが香港にに行くことは死を意味します。  

頭山満や犬養毅、そして杉山茂丸などのアジア各国の独立運動を支援する人々はこれに反発し、その考えに理解を示した新宿中村屋の相馬愛蔵によってボースをかくまわせることを工作しました。

公安の尾行をまくために頭山満邸で、お別れ会を開き、裏庭からそっとボースを逃がします。路地裏に出ると、そこには、杉山茂丸が所有する自家用車が待機しています。この車に乗ってボースは新宿の中村屋へと運ばれまし た。  

その後、ボースは相馬氏の娘と結婚し、日本に帰化します。当時、イギリス式のカレーしかなかった日本に本物のインドカレーを伝授しました。今でも、東京新宿の中村屋の2階にいくとボースが伝えたそのレシピに沿ったインドカレーを食することができます。 ボースはその後もインド独立を夢見て活動を続けますが、ふるさとインドの地を踏むことなく相馬家の人々に見守られながら、日本でその人生を閉じることとなります。  

私の父、杉山龍丸は、幼いときにボースと面談し、ボースから

「私は帰ることができないが、私が育ったインドというすばらしい国があるから、大きくなったら行ってみてね」

と言われたと言い残しています。その言葉が、インド緑化のために全財産を投じてその生涯を終えた父の心に遺っていたことは言うまでもありません。  

インドは日本に対して、台湾とともに戦後賠償を放棄しました。隠された民間交流の歴史こそが、いま、大切に語り継がれるべきものであると考えて活動をしています。

余談ですが、福岡の中村学園に伝わる「はるさんカレー」はボースの本格的カレーを福岡の人々に食べてもらいたいと考えた中村学園創立者の中村はるさんが頭山満からの紹介でボースに会い、ボースのカレーレシピを福岡に持ち帰ったものです。

グリーンファーザーの英語訳

ふたつの悲しみ 秘話

「ふたつの悲しみ 秘話」は、北インドの砂漠地帯を緑化し豊かな農地に転換するのに貢献した「グリーンファーザー」としてインドの人々から尊崇されている日本人、故・杉山龍丸氏に大きな影響を及ぼした明治時代の政治家である祖父・杉山茂丸氏や作家の父・夢野久作氏の系譜を紐解き、龍丸氏の昭和の戦争体験や戦後の活動まで、ファミリーに遺された数多くの文献や生前の龍丸氏の言葉や著書から、杉山満丸氏(龍丸氏の子息・福岡県在住)が父・龍丸氏の人格形成・思想形成に至る道筋と業績を丁寧に解説した新刊書です。

インドで龍丸氏が見たものは限りなく広がる砂漠でした。龍丸氏はそれを豊かな農村地帯に変えた恩人であると、インドの人々は感謝の念を忘れることはありません。現在も残る「国道1号線沿いに続くユーカリの並木」は私財を投げ打って、長い試行錯誤を重ねながら龍丸氏が実現したものです。植林の成功で地下水が地表に汲み上げられ作物の育つ耕地に転換され、それを見て学んだ人々がその後に北インド一帯を豊かな農村地帯に発展させました。

国際留学生協会

杉山龍丸氏 関連文書アーカイブ

 

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